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掬水弄花さま:合同誌寄稿

 湖月は、判然としていた。竹林を分けて望むそれは波紋ひとつ広げることなく、ただ飄々として、紺青の空に浮かぶ満月を写してそっくりにひかっている。今宵の月はとかく目映い。いつの夜よりも、ひときわ大きく、強く輝き、わたしに運命を迫っていた。

 

「……リツさま」

 返事はない。ただ、静かに、金色の髪を翻して、こちらを振り向いてくれる。紅に艶めく爪が、裾から覗くたび、胸の奥のなにかが疼く。

「あの、人伝に聞いたのですが、今宵は重ね夜月……だとか。なにかの行事のようなものでしょうか?」

「かさねや? ……まさかお前からその言葉を聞くとはな。鎌鼬の入れ知恵か」

「あ、あの、はい」

 目が合う。金色の髪、金色の眼。ひとならざる者の帝である天狐の彼は、出会った当初よりも幾分かやさしい眼をしてくれるようになったと思う。……うぬぼれでも、かまわぬほど、彼は、そうさせるうつくしさを持っている。金色のひかりが、瞳の奥で乱反射して、散らばっていく。こんな鮮烈な色彩をもつ存在を、わたしはほかに知らない。

 彼は、絹糸のようにするすると髪を流しながら、背を丸めてわたしを覗き込む。とても、とても近くて、呼吸の仕方を忘れてしまうくらい。

 

「……興味があるのか」

 

 こうも低く、仄めくように囁かれては、頬が熱くてかなわない。わたしの頭をゆうに掴めてしまう大きな手の、その甲で私の頬を撫ぜていく。爪で裂いてしまわぬようにとは、直接聞いたことは、ないのだけれど。きっとそう。

 

「期待する通りかは知らぬぞ」

 

 しゃん、と耳飾りを鳴らして、また背を向けて歩いていってしまう。わたしがみっつ歩く間を、ひとつで歩み進めてしまう彼は、わたしを待ってくれたことがないけど、彼は、それでいいのだ。ずんずん、前を行って、広い背に、わたしをすっかり隠してしまって。

 歩を進めると、あかい落ち葉が小さく舞う。風を纏って、音もなく先を行くひと。わたしのしろい髪も、ふわ、ふわ、歩調に合わせてなびく。わたしはまたみっつ歩いて、あなたは、ひとつ歩いて。ついていけるうちは、けんめいに。

 

「リツさま」

「……」

「楽しみにしてますね」

 

 なんだか、複雑に眉をひそめられてしまった。

 

 

 *

 

 

 朱い、大きな鳥居だった。

 見上げても、見上げても、とにかく果てがない。かろうじて、鳥居……だということは理解できたものの、わたしは目をまあるくするだけで、それ以外にはなにもできない。夜深く、幾千もの鬼灯提灯を絡めて、煌々と在る。辺りを見回すと、上方に湖月を望んだ竹林を見付けた。白い約束の結紐があるから、間違いない。となればこの鳥居、湖のそばにあるらしい。

 

「こんな大きな鳥居、ありました、っけ?」

「半刻ほど前に現れた」

「え?」

「じき満ちる」

「ええっ、汐が……ですか?」

「阿房が。此処が海に見えるか」

「……えっ」

 

 どこか遠く、夜闇のその先を見据えている瞳。わたしは、紅爪を見詰めて隣り合う時間を過ごした。リツさまは、どこか秋愁る素振りで、わたしを見ないようにしているので、わたしも、そうした。

 

「時に、『重ね夜』の意味を知っているのか、お前は?」

 

 ふいに、そんなことを問われ顔を上げると、リツさまが、此方を真っ直ぐ見て答えを促すように首を傾げた。どこまでも、艶かしいお方。

 

「えと、あやかしと関係があることですか?」

「……やはりか」

「鎌鼬さんは、楽しげにしてましたよ」

「あやつには女が居るでな」

「お……おんな」

「……まあ、重ね夜の意味など知らずともよい」

 

 予感するには遅すぎたのだ。予感していても、なにかが変わったわけではなかったのだろうけれども、わたしはばかなんだなあ、とぼんやり考えていた。 妖しく伏せられた睫毛が、こめかみをくすぐって、気が付くと、わたしのくちびるは、奪われていた。 咄嗟に胸を押し返そうとしてもぴくりともしないし、むしろあの手のひらが、抵抗するなと言わんばかりにそれを下げさせた。

 長い間、くちづけていたと思う。わたしは瞼をかたく瞑って、肩を竦めて為すがままにされていただけなので、よく覚えていない。ただ、リツさまのあまい香りが、鼻腔を満たしていた。

 俄に、月は欠けて、霞みゆくもの。

 

「『天穿鳥居の現る夜、重ね重ねや、湖月の眼下で閨事を』どこぞの阿房の妖が広めた戯言だ。単なる言葉遊び、妖どもの間にも流行り言葉はある」

「……ねやごと……」

「みとせほどは流行ったものだが。」

「……そ、そ、……そんな」

「生娘」

「うっ」

 火照る頬を、いつもの手の甲が、いつものように撫ぜていく。彼はちいさく吐息する。風がいやに冷たい。今この空間で、いちばん熱いのは、わたしだ。

 また、どこか遠くを見ている彼を感じていた。わたしは、それに合わそうと思うまでもなく、紅爪すらも、まして横顔も、見ていられないのだった。

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