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浅葱

掬水弄花さま:合同誌寄稿

 あおい水が、柩の底から湧き上がっているのを感じていた。柩の縁をするすると流れていく碧水を、静かに眺めている。むかし胸に抱いた、赤子を思い出していた。産声をあげたばかりの子の胸に耳を当てたときの、鼓動の力強さを覚えている。

 わたしの心臓は、怯えていた。赤子にも並ばぬ臆病な心臓が打つ鼓動は、乱れていた。柩から絶えず溢れる碧水の音が鼓動と重なるたび、わたしは震えてしまい、それを隠そうとして骨が軋んだ。

 ――これから、こんなに冷たい水の中で、死ぬ。

 そう思うと、足が竦んでしまって、もう、どうにもひとりでは動けなくなってしまうのだった。

「ナキ」

 名を呼ばれて、弾かれたように傍らに立つひとを仰ぐ。揺らがない、絶対的な信念を宿す瞳がまっすぐわたしを見据えている。伸ばされた手を取ると、わたしの鼓動は少しだけ穏やかになる。

 彼の手は、子の時のままの力強さを失わずにいて、熱い。それなのに、わたしの手なんかは、さみしげに冷えてしまっている。わたしは、彼の手のひらを離す決心がつかずに、俯いた。

「おそろしいのか?」

 彼のやさしい声は、今ばかりはわたしをひどく切なくさせる。込み上げる感情の名を探りながら、首を振った。……おそろしいのかもしれない。わからない。今朝、彼が髪に飾ってくれた鈴花が、ちりちりと音を立てて揺れる。

 

「進みましょう。……先へ」

 

 結局、問いに応えることは、なかった。繋いだ手の先で、わたしの爪が食い込んだだけだ。この爪が彼の手の甲に傷痕を残し、血の糸を引くことがあっても、わたしの爪は少しだけ赤く色付くだけだし、彼はきっと微笑んで、軽く、それを舐め取るだけだろう。痛いとは、一言も言わない。

 

「……当然なのだろうな。君は、……人間だから」

 

 *

 

 数年前、彼の母君を看取ったのは、わたしだった。

 わたしは、ひとりの人を喪う悲しみに暮れ、顔をあげていられなかった。涙が頬を伝うのを、拭っていいものか決めあぐねて、母君には余計優しく微笑まれたのだった。あなた、そんな風に泣いちゃう子だったのね、と、我が子のようにわたしを抱きしめてくれた腕の、なんと細かったことか。  わたしが泣き時雨る間、彼は笑顔だった。母君の瞼が閉ざされて、冷たくなってしまうまで、盃を片手に。思い出に浸ることもなく、日常のように、それは酌み交わされた。

 それは、死を旅立ちとして祝福する碧水の民にとってごく自然なことだと、わかっていた。寝そべる母君も優しく微笑んで、贈られた花々を指先で愛しそうに撫でていたのだ。それでも、大切に想う人を亡くして、つらくはないの? そう、尋ねたことがある。前世だの、輪廻だの、わたしには到底理解出来そうになかったから、たまらなかったのだ。

 愚問だった。

 彼の答えは決まっている。『私たちは悲観しない』それだけだ。わたしを、母君と同じように愛しげに撫でて、面影のある微笑みがわたしを貫いた。そのとき、わたしは、悟ったのだった。母君を飾った、うつくしい花のようには、なれそうにない、と。

 

 決意する刻が迫っていた。

 天蓋から降り注ぐ花々が、色硝子を透いて煌めいている。やがて柩を覆い隠してしまう頃になって、ようやくわたしは瞬いた。

 

「いこうか

 

 碧水は、柩を彩る花々を押し上げて湧き溢れ、わたしの足元に流れ着く。爪先は、花々を踏まぬよう躊躇いながら水を掻き分けて、ひとつ、ゆっくりと前へ踏み出された。大きな波紋が広がり、花は散る。ぱちんと弾けて、碧水にとけていく。

 

「どうしても、往くの?」

「ああ」

「とどまることは出来ないの?」

「ああ、……そうだな」

 

 もう、引き返せないのだとわかっていたはずだった。碧水の流れは、わたしの足ふたつのことで止まってくれなどしない。いつでも気ままに、流れていくだけなのだ。碧水も、花も、わたしも。そして彼も。一等に拵えた鈴花の髪飾りは、まさに今、やさしくわたしを導くためだけにあるのだと悟って、瞳が濡れた。

 

「泣き虫だな」

 

 柩に辿り着く頃には、とうとう滴り落ちるばかりになってしまった涙を、堪えることはできなかった。碧水に混じって、彼の足元に触れることを期待していた。花弁をひとひら掬った手で、涙の先を確かめるように頬へ触れ、たまらなくなって、その場に座り込んでしまう。

 花と螺鈿に飾られた、青硝子の柩。

 ――アブルートゥル

 死せる者が眠るべき場所には、彼の名前が刻まれている。

 

「今度は、俺が置いて行ってしまうんだな」

「……え?」

「また、会えるだろうか? 輪廻の……その先の世界で」

「どういう……」

 *

 人ひとり、見送るためにここに来た。彼は、病のせいで歩くことに精一杯だったので、柩には、倒れ込むようにして身を沈めた。遺された言葉は、ない。

 赤く色付く爪を陽に透かして、碧水の民を想い、むりに微笑んでいて、ふと、涙が落ちる。枯れてしまうまで、まだ、まだ、時間が掛かりそうだ。鼓動は、すっかり穏やかなものだが。

 

「ねえ、……あなたの旅路は長いの?」

 

 わたしは、柩から散華する水流の傍らに居る。ほどけてしまった手の、行き場を探すために、わたしだけはもう少しだけ生きていく。吹き抜けていく風が、彼の吐息によく似ていた。

 わたしは、天へ舞い上がる泡沫と花々の色を掴もうとしていた。だって、まだ、あそこには彼の気配が残っている。

 

 私たちは悲観しない 君の死を

 けれども君がいた場所に ぽっかりと

 私が君を愛した分だけの 穴は空く

 

 

「……あなたがわたしを亡くしたとき、歌ってくれたうたを、思い出したの」

 

 わたしが碧水の民で、あなたの恋人だった頃。今とは少し違う、前世のはなし。桃の花が咲いていたわね、それから、空がとても、高かった。

 

「……また逢いましょう、ね」

 

 そう小さく呟きながら、柩に刻まれた彼の名を撫でると、指先に絡まる糸が見えた気がした。

​イラスト*八雲さまより 

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