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いちごいろにひかる

掬水弄花さま:合同誌寄稿

 手紙が届いた。宛名も差出人も書かれていない、真っ白な手紙だ。私は女のくせに警戒心の欠片もないので、封はすぐに切った。中には封筒と同様に真っ白な一枚の便箋だけが入っていて、ほかには何もない。ただ、丁寧なまじないで封がされていて、開けると、苺の甘い香りがした。どうやら悪意はないらしい。けれど名乗ることも、しないらしい。

 何も書かれていないということは、この部屋の郵便受けに直接届けたのだろうと思う。黄昏時に郵便配達をしているお陰で眠るのは深夜で、起きるのは正午近くになってからのことが多い。眠りは深く、一度ベッドに身を沈めてしまえばしばらくは起きない。良くも悪くもこの部屋で起きて過ごす時間はごく僅かなもので、自分に知られずに手紙を届けることは殆どいつでもできたと言ってもいい。

 

「誰が、なんのために」

 

 寝起きは、それを眺めて過ごした。黄昏時になれば、郵便配達の仕事がある。いろいろな家を訪ね歩くから、手紙について訊けば誰かが何か知っているかも知れない。だから、それまでに何とかこの手紙の意図を知りたかった。

 

「ほんと、まっしろ。何の手掛かりも……」

 

 ありゃしない、とは、言わなかった。

 

「……芸が細かい」

 

 結論から言えば、手紙は何も書かれていないわけではなかった。そしてやはり、悪意のあるものでもなかった。

 蜜煙草を咥えて窓に寄る。手紙を夕空に翳して、目を丸くした。蕩けるような太陽の色を移し取って、きらきらと耀くあかい文字が浮かび上がる。苺の香りがいっそう濃密に揺蕩い、瞳の奥にまで甘く香った。  それは、眩暈がするほどに強い誘惑だった。

 

 *

 

 月明かりを背に受けて、路地に立つ。自分の影だけが、暗がりの中、静かに伸びていた。少し踏み入ると、月明かりも差さなくなる。影は暗がりに消え入ってしまった。

 手に提げたカンテラひとつの灯りでは、この暗がりを行くには心許ないが、手前の家にカンテラを寄せると、細かい彫刻が施されたドアと、硝子細工の花のランプがよく見えた。花はまだ、つぼみのままだ。  煉瓦道にコツンと踵を鳴らし、暗がりへ向けて歌うように声を掛ける。

「郵便屋さんがきましたよ、灯りを頼りに参ります」と。

 声に反応して、カンテラにつけていた"篝火"と書かれたネームプレートが淡く光る。すると、路地の最奥から風が吹き抜けた。羽織っている薄衣が風を孕んで大きく膨らむ。はたはたと髪や裾が靡き、目を閉じてそれがおさまるのを待った。

 しばらくして風が止み、静寂が再び訪れた頃ゆっくりと目を開けると、ちょうど、つぼみだった花のランプが次々と花開いていくところだった。色とりどりの灯りが点り、辺りをたちまちやさしく照らし始める。鈴蘭に、桜に、牡丹に、薔薇、四季の入り乱れたこのランプたちは、これから私を導いてくれる心強い味方だ。

 夜、この灯路を歩くために、郵便屋になった。

 明かりが少ないこの町では、陽と共に暗闇に沈む。

「暗くなる前に帰らないと、人攫いにつれていかれるよ」なんて、よく大人に言われたものだ。だから、灯路見たさに家を抜け出すとしこたま叱られたが、昼間とはまるで様相を変えて見せるこの町の路地は、幻想的で、ランプが今にも香るように美しかった。

 手に提げていたカンテラの火を吹き消して、ベルトに掛ける。あたりはすっかり明るくて、煉瓦道の傍に咲く野花もよく見えるほどだ。歩き出して、ランプをいくつも過ぎていくと、影が光源に遊ばれてくるくると躍る。これもいつだったか、不思議でたまらなかったっけ。何でもないことを懐かしみながら、今日の黄昏を往く。

 あかい鞄の中には幾つかの手紙と小包、それから蜜煙草が一箱。あとはこの花々を、ぽつぽつと辿っていくだけだ。

 四軒目の家は、見慣れた苺の花のランプが点っていた。ドア縁に蔦葉が彫刻されていて、ランプの下にぶら下がっている呼び鈴が実の形をしているのもいい。いつ見てもしゃれている。

 

「郵便だよ、開けてくださいな」

 呼び鈴を鳴らし、声を掛ける。程なくして足音がこちらに寄ってきて、ドアの隙間から見知った顔が覗く。

 

「あら、かがりちゃん」

 

 私の姿を確認するやいなや、おばさんは頬を綻ばせて笑った。つられて笑い返すと、留め金を外してドアを開け放って迎えてくれる。その仕草が昔と変わらないことに、どこか安堵している。なんなら今にも昔のように、「人攫いにつれていかれるよ」と脅かして来そうだ。

 

「うちにお届け物って久しいわ」

「そうだな、私も苺の呼び鈴は久しい気がするよ」

 

 革鞄を手前に持ってきて、中身を漁る。元気にしてた? ああ、いつも通りだよ。なんて、なんでもない会話を繋ぎに、時折顔を見合わせて笑い合う。

 

「これ、手紙と、こっちは小包」

「ありがとう」

 

 おばさんは割れ物注意と書かれている小包をコトコトと揺らして首を傾げている。中身が気になるのだろう。届けた後に割れてしまっても黄昏郵便は責任を負い兼ねますとわざとらしく言うと、あら、と苦笑して見せるおばさんは、相変わらず、好奇心を子どものように表現する。

 

「うちにも"手紙"が届いたよ」

「ああ! ええ、そうね、そろそろだと思っていたの」

 

 ややあって、おばさんは奥に入っていく。直ぐに戻ってきたおばさんが差し出した小瓶は、赤いリボンで飾られた、可愛らしく包装されていた。それを受け取って、私は目を耀かせた。ジャムだ。苺の芳醇な香りが、あたりを包み込む。

 

「かがりちゃんの大切な人にも、と思って。お節介だったかしら」

 

 おばさんが、私の顔を覗き込むようにして言った。瞳の奥に潜む心を見透かされる気がして、咄嗟に睫毛を伏せる。

 

「大切な人か。ありがとう、弟が喜ぶよ」

「……ええ」

 

 また、おばさんは苦笑する。

 

「お返しは近いうちに」

 

 灯路の最奥からまた、風が吹き抜ける。髪と羽織をはためかせて、おばさんに手を振る。そっとドアノブを指先で押すと、おばさんは名残惜しそうにドアを閉めた。

 今日の分の仕事は終えた。私は、来た道を戻るだけのために、歩いていく。

 私が過ぎた家からほつほつと灯りが消え、影は躍らなくなる。太陽は夜の海に溶けて消えている。私の往く道が夜ごと暗く閉ざされることに、いつも帰り道になって気付かされた。けれどそれを悲観したことは、不思議と無い。

 瞳の奥でふわふわと、花のひかる景色が浮かぶ。私にはこれさえあれば、いい。カンテラに再び火を点して灯路を振り返ると、ちょうど、最後の灯りが消えるところだった。

 

 *

 

 

 翌日、出勤前の食事で、おばさんから貰ったジャムをトーストに塗る。部屋の隅に膝を抱えて座る弟に差し出して、頭を撫でる。弟は安心した表情で、ひとくち、ふたくち、縁から零れ落ちそうになる苺の果肉を舌先で掬い取りながら、夢中でトーストをかじっている。

 七年前、弟が人攫いにさらわれた。灯路に二人で抜け出して、綺麗だねと言って振り返ると、もう、居なかった。ほんの数十秒のことだったと思う。弟は忽然とその場から消えてしまった。弟がいるだろう場所には、代わりに黒ずくめの大男が立っていて、こちらを見下ろしていた。何故か、大男は私には背中をトンと押しただけで、何もせず、そのまま路地の最奥の暗闇にすうっと消えてしまった。弟と、共に。私を残して。静かに、私の影だけをつくる花のランプは、そんな時にもやさしかったのを覚えている。

 たいへんなことになった、と、思った。「人攫いにつれていかれるよって、言ったのに」「篝火のせいで榾火がいなくなった」大人たちはみんなそう話していると思った。心配して話し掛けてくれた大人のことも突っぱねて、肩を抱いて眠った。背比べもできず、おやつの取り合いもなく、過ぎていった平坦な日々の渇きを今もまだ覚えている。

 十歳の頃、黄昏郵便局の下働きを始めた。十五歳で郵便配達を任されるようになって、それからずっと弟を探し歩いた。毎日毎日、弟が消えた灯路を訪れては、手紙を渡す先々で弟のことを訊ねた。そうして突き止めた場所に、ちゃんと弟はいた。後にも先にも、奴隷市場に足を踏み入れたのはその時だけだ。

 それからは、弟を買い戻すために働いた。弟は、怪我ででこぼこになってしまっていたので、商品と呼ばれる者たちの中でも特別安かった。それでも私の当時の生活では到底すぐに支払えるものでもなく、日々、亀裂の入った心が砕け散らないように怯えながら働いた。帰ってきた弟は、とうに心をなくしていた。年齢に相応しくなく痩せ細ってしまって、身体中に痣を作っていた。攫われてしまってからこれまでの間に、何があったのかは計り知れず、涙が溢れた。

 それはもう、私の知る弟ではなかった。

 それは、それでしかなかった。

 部屋の隅の暗がりで膝を抱えて、物音ひとつにかたく目を瞑り、何かに備えるような仕草が見られた。ひたすら、死にたいと繰り返す弟の姿を、相変わらず愛していたけれど、ただ、ただ悲しくて泣いた。泣いて、いつか幸せになれるのならずっと、いくらだって泣いた。けれど現実では泣いたくらいで事態は好転しない。そんなこと、弟がいなくなった翌日にはようく思い知らされていたはずだったのに。

 ジャムの小瓶を窓に翳す。西陽がジャムの中を揺蕩い、瞳の奥で甘く香っている。

 おばさんから受け取ったのは、毒入りのジャムだった。見た目も、色も、苺ジャム。毒の匂いを消すための、強い香り。

「おいしそうに食べるなあ」

 トーストの、最後のひとかけらを口に放り込んだのを確認して、弟を抱き締める。膝を抱えるためだけの両腕が、懸命に私を抱き返している。歌えばいつでも微笑みかけてくれた。逆に言えば、それしかしてくれなかった。ただその笑顔が、太陽と一緒に海へ溶けていってしまわないように、大切にしてきたけれど。

 

「……姉ちゃん、つかれちゃった」

 

 自嘲して、笑う。テーブルに置かれた小瓶は、白いテーブルに影を落として、きらきら、きらきらと、苺を香らせている。

 弟は私に抱き締められて眠った。もう何にも怯えなくて良い。誰もお前をいじめたりしないよ。私の涙は、お前にしか見せないよ。

 

 

 *

 

 

 遠浅の海が広く続いている。砂浜に碇を囚われた海辺の小舟に腰掛けて、小々波に足を浸すと、夕陽の蕩けた海水が足首に纏わりつく。爪先に触れる汐がくすぐったくて水面を蹴ると、夕陽の雫がぴつんと跳ねた。弾けて消えたそれはまるで蜂蜜のように飴色に光って、海に還る。ふかしていた蜜煙草のけむりを空に吹きかけると、隠れていた一等星を見付けて、思わずため息が出た。黄昏時も、じき終わる。

 まっかな太陽が海に滴り落ち、溶けていくのをぼんやりと眺めていると、たちまち空が群青に染まっていく。ふかしていた蜜煙草を携帯蜜皿に押し込み、暮れを背にした。一等星に続いて瞬き始めた星々を見上げ、小舟に乗せていた革靴を手に取る。蕩けていった太陽の最後のひと雫のようにあかく煌めいているうちは、やさしい心でいられる。誰にもとらわれず、自分の時間だけを過ごしていられる。堪能した。ああ、十分に堪能したとも。

 

「さて、仕事だ」

 

 黒い帽子を目深にかぶり、大きな鞄を提げて歩き出す。白い砂を踏む革靴は、いつものように軽かった。

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