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掬水弄花さま:合同誌寄稿

 ひとたび突風でも吹けば更地になるかもしれないと、大家の婆自身が言うのも納得のいくおんぼろ長屋だった。どてらを着込み、背を丸くした大家は、長屋を目の当たりにしてあんぐりと口を開けっぱなしでいるのがたいそう気に入ったようで、さぞ愉快そうに雪駄を擦っている。

 

「ねずみにくも、こうもり、先客に失礼のないようにしな、弥平」

 

 住まいを決める前から分かってはいたことだが、想像していたよりもひどかった。当たり前に壁などは薄く、脆く、土壁から覗く藁を摘んで引けば容易く壊れた。湿気で床や柱がたわんでいるせいで畳も噛み合わず、格子窓を覗くと墓地があり、光など差しこむこともない。挙句、少し動いただけで埃は舞い上がるし、それを合図に床下や天井の隅からがさがさと慌ただしい先客とやらの気配を感じる。

 

「こんなおんぼろでも住むからには金はきっちり払って貰うよ。それでちっとは酒が呑めるんだからね」

 

 ひひ、と笑って大家はそれだけ吐き捨てて踵を返した。

 それから、弥平がここに居ついて数ヶ月が経つが、畳や布団が黴くさいのには慣れても、風が吹く日の戸がうるさくてかなわないのには一向に慣れないでいる。建てつけの悪いあの戸、普段手を掛けても一寸ずつしか動かぬくせに、吹き曝しになる分にはどうにも緩いらしく、風が吹こうものなら途端に喚き散らすものだから、まったくひとつも眠れやしない。存外、こんなに風が吹き荒ぶ中でも、簡単には更地にはならないものである。

 しかし一度目が冴えてしまうと如何ともしがたく、仕方がなく重たい身体を起こした。ひやりと背を撫でる隙間風に身を震わせ、こんな侘しい暮らしをするしかない自分の情けなさに溜息も出ず、悴んだ手を擦り合わせて暖をとった。

 年越し間近の霜月に、仕事の依頼は一件だけ。

 弥平は、ただの男である。名誉も、金もないが、野心だけは一人前にある。どこにでもいるような、ちっぽけな男である。昔こそ派手に遊んだものだが、今では気まぐれに夜鷹を買うほどで、嫁などという気配はない。

 黴臭い空気を肺いっぱいに吸い込んで、煎餅蒲団に肩を打って寝転がり、目を瞑った。お天道さまに顔向け出来ないで生きていく人間には、安寧とも呼べる時間だった。

 

 *

 

「おい。……おい、弥平、起きてるか」

 未明、予定通りに出立の報せが入った。格子窓を見上げ、ひと息ついてから、芯まで冷え切った身体を再び起こす。

 

「起きてたよ。こんなところで寝ちまったら寒さでおっ死んでらあ」

 

 違いねえ。そう言って笑った報せの声は、よく見知った男だ。久方振りに会ったそいつは、名を清八という。にかりと歪んだ口元を見るにいくつか歯が抜け落ちており、決して清潔とは言い難い。そして、いい意味で根性無しの男だ。十代の頃は一緒になって悪さをした旧い仲だが、清八のおかげで殺しなどはしていない。いくつか危ない仕事はしてきたものの、血は見ずに済んでいる。けれども清八のことだ。もし危険があったとして、今回の仕事も、清八が報酬を手にすればどうせ吉原の妓に吸われていくのが目に見えている。

 身体の節々が痛み伸びも出来ないが、のろのろと手元の行灯に火を点し、格子窓を覗くと、すでに駕籠が用意されている。その駕籠がまたおかしなもので、漆塗りに金の細工、障子ばりの大窓、担ぎ棒は角棒であった。こんなに豪奢な造りなら、駕籠の傍らに立つ婦は、大名の娘と勘繰られても致し方のないことだ。……娘というには帯は低く締めてあるが。

 それにしても結髪や化粧からしても明らかに江戸に馴染む気のないあたり、どこぞの大名に嫁いだという風でもなく、首を捻る。とかく謎の多い婦には違いなかった。

  婦は、京の婦らしい佇まいで、こちらの話に聞き耳を立てるでもなく、寒空の下、背を向けて待っている。月明かりに照らされた横顔は、決して若くなく、美人とは言えないが、肌は張りがあってきれいだし、つとからうなじを垂れる乱れ髪が儚げで、尻も大きくて、何よりその熟した身形に反して健気に寒さに震える姿がいい。

 

「いい女だが、訳がありそうじゃねえか」

「まあ、訳はあろうよ。現役の駕籠舁きにことごとく断られて俺たちのところに来たらしいからなァ」

「引退して間もねえし問題はねえだろうが……ともかくあの婦を連れて下ればいいんだな?」

「ああ、西の外れのお屋敷まで。それで終いだ。あとのことは頼まれちゃいねえからな」

「関所は?」

「なんも心配いらねえって」

 清八の悪い癖が出た、と思った。大した根拠もないくせに、大丈夫だ平気だ心配ない、と軽々しく言う。それで今まで散々酷い目に遭っているにも関わらず、何とも学習しないやつだ。

 

「あとあとけちつけられなきゃいいんだがな」

 

 おんぼろ長屋から出て、墓場の隅に移動する。清八が声をかけて三人目の舁き手と、腕の立つ用心棒が揃った。どうやら先棒と後棒、交代役に用心棒、それから婦ひとりの五人での旅になるようだ。互いに軽く会釈などしたところで、ようやく婦を駕籠へ促す。かと思えば婦はそれを一旦制止して、ゆっくり、深々と礼をすると、

「うち、さちと申します。長旅になりましょうが、どうぞ、よろしゅうお頼み申します」

 

 そう言って、後ろ髪を引かれるでもなく、するりと駕籠へ消えた。一瞬、裾から露わになった白く柔そうなふくらはぎに見惚れ、婦を促した手は、行き場をなくして空を掻く。

 駕籠の中の行灯が、障子にくっきりと婦の影を描いていた。

 *

 

 

 駕籠は山道に差し掛かる。ただでさえ人通りの少ない道は薄く雪に覆われて姿を消しかけているが、雪はちらつく程度のもので、木々に赤い布の標もあったので、歩み進むに問題はなさそうだ。ただ、日が落ちる頃になるとそうはいかない。

 

「今日はここいらで終いにしよう」

 

 清八が言う。路銀の都合か、人目を避けるためか、さちは宿には泊まりたがらなかったため、温泉宿に寝泊まりすることも出来ず、野宿以外に選択肢はない。

 しかし用心棒がいるとはいえ、ただでさえ婦を連れて山を越えるのは危険で、ましてやこの寒い日が続く中、山賊に身構えながら、蒲団もなしに眠るのは酷なことだ。それなのに、さちは寒い夜を駕籠の中で過ごし、何でもないように振る舞う。そんなさちの手前、文句など言えず、今日も深く溜息をついた。

 

「手が悴んでたまらねえ、さっさと火を焚くぞ」

 

 薪を集めに各々が森に散らばろうとする中、さちも駕籠から下りてそれを手伝う。さちが駕籠から姿を現すたび、結髪が少しずつ乱れていく様は男たちに不埒な印象を与えた。裾と白い足に縺れてころころと落ちる色とりどりの折り鶴で、惚けた男たちは目を覚ます。さちが駕籠の中で手慰みに折っていたらしい。転び落ちた折り鶴を拾い上げ、駕籠の中に放り込む仕草さえ、たおやかで、疲れた男たちの胸を弾ませるには十分すぎた。ふと、視線に気付いたさちは、 「自分で身嗜みも整えられへんで、なんや恥ずかしいわ」 と、照れ隠しのように微笑む。愛嬌のある女だ。

 

「そんなこたあねえよ。……それよりさち、すまねえなぁ。こんな山道じゃ駕籠も揺れてたまらんだろう」

「あら、いややわ、むしろ快適なくらい。弥平さんにはえらい気遣うてもろうて、嬉しいなぁ」

 

 駕籠は上等にしても、事実相当に揺れた筈だが、さちは文句のひとつも垂れなかった。この時は、さちのしたたかさが励みになっていたような気もする。

 男たちは駕籠の外で焚き火をたいて、疲れを少しでも取るために蓑を被って泥のように眠る。紅一点のさちのすぐそばで、一人ずつ順番に不寝の番を任された。

 さちに火にあたって温まるように言っても、やんわりと断られ、結局さちと火を囲むことは叶わず、逢魔時になると行灯を点して障子にその影を露わにした。折り鶴を折る姿や、肘掛けに凭れ掛かる姿、髪を櫛で梳く仕草が、影でしか見られないのが、またどこまでも男心をくすぐるのだからしょうもない。不寝の番はこれを楽しみにして、むしろ番を買って出る者が現れる始末だ。

 さちには何か、昏い過去があるかも知れない、いいとこの女かも知れないとみながみな深読みし、男たちは毎夜こそこそと、ばかみたいに盛り上がった。到底、さちにその姿を見せることは出来ない。

 いくつかの山を越え、山道に入ってから数日が経った。人目を避けて通る道というのは、時間もかかるし、疲れも溜まる。癒しといえば、たびたび水浴みのために川や湖に立ち寄り、手拭いを濡らして身体を拭くのみで、これはこれで冷たくてかなわないが、身綺麗にすれば少しは気持ちが晴れていく。さちは、冷たい手拭いに身震いはしても、それすら、さして気に留めていないようだった。

 文句も垂れず、疲れも見せないさちの姿は、もはや気丈と呼ぶにはあまりにも不自然であった。普段は吉原の我儘娘を相手しているせいもあって、さすがに男たちもみな不思議がり、今度はあの手この手でさちの本音を暴こうとした。それにも関わらず、さちはいずれにも微笑みを返すだけ。男たちの詮索を不快に思うでもなく、手玉にとって駆け引きして遊ぶでもなく、子をあやすような微笑みで黙らせるのである。男たちは無意識のうちに、日がな一日さちの本性ばかりを考え、さちの所作すべてを目で追うようになり、すっかり虜になっていた。無防備なようで、難攻不落。さちという婦は、男たちにとって女にしか見られなくなっていき、そして堕ちていくまでに、そう時間はかからなかった。

 

 

 *

 

 

 弥平が不寝の番を任された、或る夜のことだった。

 とっぷりと夜も深まり、みな寝静まり、弥平すら舟を漕ぎ始めた頃。ふと、駕籠の簾が擦れた音で目が覚めた。さちはまだ起きているのか。火にもあたっていないし、こう寒くては眠れもしないか。心配になって、駕籠を振り返ると、行灯の明かりが差す。

 弥平は息をのんだ。

 耳を澄ませば、押し殺すようなさちの吐息が聞こえる。時折、あ、と声を洩らし、簾から覗く白い足が甲を伸ばしてぴくんと跳ね、視線を上げると、行灯が仰反るさちの細い喉を写していた。さちが身悶えすると、足を伝って折り鶴が転び落ちた。この鶴を折った指先が、いま、さちを慰めているのだと、弥平は悟る。

 扇状的なその光景は、ただの男である弥平にとって、理性を欠くに余るものだった。弥平が近寄り、そろりと爪先に触れると、一瞬躊躇いを見せたが、すぐに誘うように弥平の手を追いかけてくる。弥平は誘われるがままにその足にかぶりつき、爪先を舐めた。さちの足の指が弥平の舌をなぞり、弥平が甲を噛めば、さちは小さく声を洩らし、更に求めてくる。さちの肌は甘く、あの裾から見ていたふくらはぎはいいにおいがした。

 弥平は、もうすべて許されたものだと思って、堪らず足を掴んで簾を払い退ける。熱っぽく、濡れた瞳と視線が絡むと、弄ばれてもいいような気がして、脱力した。さちは着物をはだけて乳房を露わにし、濡れそぼった太腿をひろげたあられもない姿で、これから触れるであろう弥平の熱を期待して吐息している。

 

「……俺は、その、……騒いでも、やめられねえぞ。あとから責められても知らねえし、誰か、誰か起きてしまっても構わねえ。あと、それに、たぶん、はらむまで離してやれねえ……」

 

 そう捲し立て、さちの肩を掴む。声は掠れていた。弥平の視線はさちの乳房に釘付けで、今にも飛び掛からんと全身震えている。そんな情慾にまみれた男一人を目の前にしてさちは、いつもとはまったく違った艶のある声色で弥平の名を呼び、弥平の一物に触れて囁いた。

「弥平さんのおすきに……」と。

 こうなれば、弥平が獣に成り下がるのも早かった。簾が翻り、駕籠が軋んでもほかの男たちが起きてこないのをいいことに、段々と烈しくさちのしなやかな身体を貪る。さちの乳房に吸い付き、尻を揉みしだき、蜜壺を一物で貫いて乱暴に揺すった。さちを組み敷き、押し潰すようにして抱いたあと、吐精してなお抜かずに体位を変えて何度もさちを味わった。それこそ、弥平の好きなように。

 さちは一度たりとていやな表情をしなかったし、むしろ悦んで弥平の情慾を受け入れたが、弥平はさちが声を上げないように、手拭いを噛ませた。万が一にもほかの男が起きてきて、横取りなんぞされたくなかったからだ。さちは今宵限り、俺のものになったんだ。そう思った。

 

「さち、すまねえ、……やさしく、あたたかい蒲団で抱きたかったよ。本当にそう思ってんだ。信じてくれ、さち」

 

 乳房にうもれて、弥平は今更のように弱気になって謝った。さちは、すっかり弥平に穢された姿で、満足そうに微笑んでいるのみである。

 弥平の息を整えるように背を撫でて、やがて抱き込むようにして、夜明けまでの短い時間を狭い駕籠の中で寄り添って眠った。

 焚き火の火はとうに潰えて、行灯だけがふたりの影を写し出す。それは簾の合間を縫って、眠る男たちの蓑にまで伸びていた。 それからの旅は、さちと弥平の秘め事が露見しないように要心して過ごした。目的地のお屋敷はもうすぐそこにあり、旅も終わりに近いことをさちから聞いていた。寂寞の念をどこにやるということもなく、項垂れる。弥平、おまえ、疲れているかと問われて、いつの間にか、大丈夫だ平気だ心配ない、と清八のようなことを答えている自分が情けなかった。清八の悪い癖だと呆れるのは、今日までだと思って、苦笑した。

 不寝の番の日は、決まってさちを抱くようになった。一夜限りの営みだと思っていたのは弥平だけで、さちは、弥平が不寝の番のときは必ずその爪先で誘い込んだ。不寝の番を任されていないとき、目を閉じたまま寝たふりをしてさちの様子をうかがったが、さちがほかの男を誘い込んだためしはない。だから余計に、誘われるがままに、簾から駕籠へ身体を滑り込ませてしまうのである。

 いくら身体を重ねても、あの夜のように烈しくはないが、変わりに、慈しむようにさちの厚い唇を食むようになった。太腿に手の痕が残るほど荒く扱うこともなくなり、獣は獣には違いないが、獣なりに花を愛した。それはさちも嬉しそうにして、たまにはええんよ、と微笑むが、頑なに首を振った。けれども気が付けばさちの思うがままに腰を打ち付けている。弥平は、その程度の男だった。

 

 

 *

 

 

 幾つの山を越えてきたか分からない。駕籠は、ようやく西の外れに辿り着いて、冬も師走を迎えようとしていた。男たちがひと息入れる間にも、さちは鶴を折っている。

 

「さち、あと少しだからな。揺れももうちっとの辛抱だ」

「あらぁ、辛抱なんてひとつも。ふふ、おおきに」

 

 さちは微笑む。弥平にくれた視線にひとりどきりとしながら、少しずつさちとの別れを咀嚼する。

 

 

 西の外れのお屋敷を見て、男たちは絶句した。さちを除く四人が顔を見合わせて戸惑いを露わにした。

 

「本当に此処で合っているのか? 間違っちゃいねえか?」

 

 清八がさちに問う。相変わらず、さちは、微笑む。駕籠から降り、一礼して感謝を述べたあと、屋敷の門に歩み進もうとするさちの肩を掴み、行くなと首を振る。別れの寂しさからではない。これは、警告だった。

 長旅を共にしたさちには、情がある。行かせたくないのも無理はなかった。西の外れのお屋敷とやら、明らかに地主ほどの権力がありそうな大きく立派な造りであるくせに、とんでもないおんぼろなのである。冬の風が吹く。がたがた、ごろごろと不穏な音を立てて、屋敷全体が揺れた。石塀の穴からねずみが飛び出し、門はくもの巣だらけ、こうもりも荷物の隙間に夥しい数が眠りについている。こんな場所に、さちが一体どんな用事で来たのか、皆目見当もつかない。此処が生家と言われても、俄には信じられない。

 

「ふふ」

 

 さちは、行ってしまった。くもの巣を気に留めることもなく、するすると入っていってしまった。男たちはさちとの別れを惜しむより、屋敷の気味の悪さに後退りする。弥平の住むおんぼろ長屋とは比べものにならぬ淀んだ空気が、黴臭くて仕方がない。もういい、もういい、帰るぞ。そう清八が言うやいなや、男たちは振り返らないようにして、さちのいない駕籠を舁く。

 立ち去ろうとしたその時だった。屋敷の奥からどたばたと慌ただしい足音がしたかと思うと、その屋敷の主人と思しき男が埃を巻き上げて門から転げて出てきた。

 

「お、お、おまえたち、この箱を、この箱を運んできたのか、この、この箱を!!」

 

 縺れる足で主人は清八に縋り付く。皮脂と頭垢でべたついた髪が落ち武者のように伸びており、離れろとその頭を掴もうとした清八に躊躇いが見えた。清八は襤褸に成り果てた着物の裾を踏んで蹴飛ばすと、主人を苦虫を噛み潰したような表情で睨み、見下ろした。

 

「箱ってのはなんのことだ? 俺たちが運んできたのは婦だ。会っただろう、お前さんの屋敷に入ってったんだからよ」

 

 主人は、それを聞いて瞠目した。自らの肩を抱いて震え出し、手に持った古い手紙を握り締めている。

 

「……化けていたんだ……化けていたんだよ……箱は、箱は、海を渡って遠くへ売ったと手紙だってあるのに……どうして帰ってくるんだ……誰の手を渡って……どうして……」

 

 頭を抱えて蹲ったまま、嗚咽し始めた。下女ふたりが主人を連れて行くまで、男たちはそれを黙って見詰めているしかなかった。

 弥平はといえば、帰路についてからというもの、血の気がひいて、虚ろな目のまま、用心棒に肩を支えられ歩いた。

 さち。さちは、何者だったんだ?

 まやかしと、俺はまぐわったのか?

 漠然とした不安感と、ひどい裏切りを受けた後のような喪失感が、弥平の精神を蝕んでいく。

 ふと、用心棒が屋敷の方を振り返るのに気が付いて、弥平もつられてそちらを振り返った。そこには、障子窓に影を露わにしたさちが、ゆらゆらと身体を揺らしている。

 

「あの箱なぁ、覚えがあってな。あれはたぶん、俺が売りつけたものに違いねえ。あんたのとこの、ほら、商魂たくましい婆さんがいるだろう。あの婆さんから買って、旅先であの主人に売ったんだ。たいそう気に入っていたからな。……まさか、再々来てみりゃあんなことになっていようとは思うめえ。元はだいぶ立派な屋敷だったんだぜ」

 

 ぽつ、ぽつ、と静かに語る用心棒の話を、弥平はいかほども聞いていられなかった。

 

「お前さんに鞍替えすることがなくて、良かったじゃあねえか」

 

 そう言って乾いた笑いをこぼす用心棒は、どうもすべてを見透かしたような様子だった。目が合えば何か問われるのではないかと怖くなって、弥平は俯く。

 さちが何者だったのかは、ついぞ聞けぬままであった。知ってしまえば気がやられそうだったし、用心棒には、さちが何者であるかなど知っていて欲しくなかった。さちはまやかしであったかもしれないのに、今はまだ、さちと過ごした濃密な夜は弥平の記憶に艶やかにこびり付いているのである。

 俯いたまま、とうとう弥平が立ち止まってしまった頃、ふと、用心棒が耳元に顔を寄せてこう囁いた。

 

「おめえさんも長屋に帰るんなら、くれぐれも"先客"に失礼のないようにな」と。

 

 弥平は嘔吐し、喉を掻き毟って蹲った。

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