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の色と糸の

掬水弄花さま:合同誌寄稿

 桃の木が連なる、萌芽の丘を歩いていた。澄み渡る空を眺めながら、行く宛もないが、足を出しては前へ進む。肩に落ちるひとひらの薄紅をそのままに、空と桃並木の境界線に立つ。じわりとその中心に、朝陽が滴るのを見ていると、胸の奥深くで心臓が震えるのを知っていた。境界線が曖昧になる瞬間、自分という小さな意識まで徹底して蕩かすような陽の光を、忘れたことは一度たりとてない。

 春節をさらさらと流れる風が頬を撫でて、睫毛や、前髪を震わせてくれてから、ようやく瞬きをした。視界に広がる分だけ切り取られていた空が、一瞬だけ、閉ざされる。白い雲が、その間にいくら形を変えていようとも、瞳の裏側の意識は、陽に蕩けるばかりだ。

 

「でも、そうじゃない、

 

 空は、もっと高くて、鮮やかな青だったと思う。今は、へんに多くの言葉を覚えたせいで、空を空色と表現出来なくなってしまったが、砕いた瑠璃より耀く青がそこにはあったはずだった。青は、あお。赤は、あか。たったそれだけの言葉だけど、感動や、憧憬、時に焦燥も、昔だったら何だって詰め込めたと思う。

 畏怖すら、抱いていた。変化することへの焦がれる想いと、思い描いた理想との摩擦で負った火傷が、ひどく疼く。

 青は、待ってくれているのかもしれなかった。桃の花の輪郭を鮮明になぞり、散らせながらも。ただ、その先にある未来を彩る色の名前を知らなかったらと思うと、蕩けていた意識も急速に冷えていくようだった。もう、退くことも出来ないというのに、陽だけは、美しい。

 

 *

 

 春の陽がいとしい季節、微睡まずにはいられまいと天藍は目を閉じている。桃の花が香る麗らかなひと時に、うたも詠まずに寝そべっている。薄く開いた瞼から覗く空は、相と変わらず高くにあって、到底手の届く色彩ではないのだと思うと、すこし淋しくなる。届かなくて当然のものを掴もうとするのはいい加減に諦めた方がいいのではないかと、心の内で誰かが囁いている。そうしたとして誰も咎めやしないが、それは情けないことだと幾許かの矜持がじゃまをして、来る日も来る日も手を伸ばす。指の先の、遥か彼方に、空は在る。だがしかし、悲しき哉、ただ、それだけでもあるのだった。

 ふと、傍らに眠る天紅を見て微笑む。時を同じくして生まれた天紅という存在は、天藍のこころの鍵を持っている。半身を起こして顔を覗き込むと、ずいぶん、安らかな表情をしていた。いい夢でも見ているのかもしれない。もっとも、どんな夢を見ていたのかを、話に聞くことはない。

 天紅の髪を掬って耳に掛けてやるのには、慣れていた。絡繰芝居に魅入られて以来、今はまだようやく人形を舞わせるのが様になった程度だが、昔、指からするすると零れ落ちていってしまうだけだった白銀の絹髪をうまく指に絡め取れるようになる頃には、絡繰師として成長した自覚が芽生えていた。身の丈ほどもある人形を繰り『花浅葱』を演じるには、天藍も、天紅もまた未熟ではあるに違いはなかったが。

 

「いつか共に演じような」

 

 だから、夢を見ていよう。そう仄めくと、微かに、そして確かに、天藍にしか分からぬような色で、天紅も微笑むのだった。

 いつかが、いつになるかは知り得ない。しかして天紅の微笑みは、いつかを疑うことを許さぬように天藍を引き留めている。空が高く笑おうと、桃の花が香ろうと、天藍は、真っ直ぐに天紅を見つめたまま慈しむだけだ。

 *

「天藍、またお人形さん連れ出して」

 

 絡繰芝居に使う小道具を整理している最中のとある手伝いが言った。彼女もまた、絡繰芝居に関連するひとりだ。何か無くなっていないか、替えの必要なものはないか、そうしてひとつひとつ点検するのが彼女の仕事である。が、いつも、"天紅"だけがいない。次に見た時には、繰り糸の一新と調整が済んでいる状態で美しく佇んでいるのだから、誰も何も言わないのだが、一座共有の小道具を私物化されてしまってはたまらないものだろう。

 

「よく似ているし、ほら。今じゃ"天紅"を繰れるのは天藍だけになっちまったしなあ」

「にしても、困るんだよ。一座じゃ、双子みたいで縁起がいいし……そりゃあ、お客さんに楽しんで貰えるのが、……いちばんだけどさ」

 

 天藍の繰る"天紅"は、微笑む。実しやかに囁かれる噂のひとつだった。人形なのだから表情は変わらないはずなのに、天藍の指先に掛かれば、悲哀や憤怒、慈愛までも表現してしまうのだった。今はまだ未熟と思っているだろう天藍は、もう、高みに向かっているのは、確かなことだった。

 認めたくないわけでは、決してない。ただ、天藍のように道具に絶対的信頼を置くほどでなければ、高みにはいけないのだろうかと、……恐れている。

 

「天藍にゃ、家族ってもんがないからさぁ。……少しは紛れるってのもあるんじゃないか」

「……ふうん。何にしても淋しいお人なんだね」 「そうでもないさ。あれはあれで、青春してる」

 

 

「そろそろいこうか、天紅」

 

 天藍が立ち上がって、手を差し出される。この手を、自ら取ることは出来ないけれども、天藍はいつもそうして"わたし"に手を伸ばしてくれる。あなたが想い焦がれる空では、ないのに、と、毎度のことながら吃驚してしまう。

 そして、天藍が背にした空に游ぐ桃の花を硝子玉の目で見て、思うのだ。嗚呼、やはりこのひとに糸を託そう、と。

 

「桃の花びら、積もっちゃったな」

 

 そう、微笑んでいてほしいと願う。

 今はまだ、気が付かなくてもいい。天藍の、空に焦がれ、畏怖する指先も、薄紅に色付く桃の花ほどには、届くのだろうということには。

​イラスト*彩迦さまより

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