top of page

陰夏座敷

vegetables×creation

ベジエイション企画投稿作品:担当野菜:西瓜

 気が付くと、ぼくは、くちづけていた。いったい、何がぼくをそうさせたのかわからない。今、義妹相手に何をした? そう自問するけれども、十数秒の間の記憶に空白が生じてしまっていてぼくはただ、まず、ぼくをどうにかしてしまった唇から離れようと思った。魔が差してこんなことをしてしまったのかもしれないとか、香に引き寄せられてしまったとか、一瞬のうちに何通りもの言い訳を考えた。それなのに、そんなぼくを余所に、三和はあろうことか微笑んだのだ。睫毛を震わせて、失望した顔色で。ぼくは、一言も言い訳することができなくなって、項垂れた。

 

「すまない」

 

 情けなく、か細い聲だった。

 

「……いいのよ。私、あなたが心を壊したひとだってこと、知っていたから」

 

 三和はぼくの頬を両手で包んで言った。一等の鈴の音のような、澄み渡った聲を聞くと、ぼくは、途端に許された気持ちになる。そして、すぐに嫌悪する。今すぐにでも、哭き喚く蝉たちを捕まえて、一匹ずつ潰して殺し、飛び出した体液で手を穢し、きれいな水に触れる口実を作りたいと思った。ぼくの心は、壊れている。三和の言う通りだ。夥しい蝉の死骸をどうしようかなんて考えているぼくは、きっともう、ずっと前から壊れていたのだ。

 

「せみは、どうせ死ぬよ」

 

 そんな眼で、見てやらないで。そう言いながら、三和は、微笑んでいた。

 

 *

 

 この世に、三和ほど冷たく微笑む婦を、ぼくは知らない。夏の陽が差しても青白いままの頬や、首筋は、ぼくを誘っていた。伸ばした手で、三和をかたく壁に縫い付けた。どうしてこんなにも冷静なのか、今のぼくには理解できない。三和だけが、ぼくを押し止める手段だったのに。やめろと言われたら、もう二度としないと誓えたはずなのに。もう、ない。二人を遮るものが、理由が、何もなくなってしまっていた。ぼくは、もう一度、くちづけていた。蝉が蝉とわかる姿でかしましく短い生を謳歌している間、ぼくたちは、蝉にとっては貴重で密度の高い時間を、むだに過ごした。三和の躯は細く、軽かった。手を引けば簡単に躯は浮いたし、そのまま力を入れていれば折れたと思う。折ったりなんか、もちろんしなかったけど。

 

 何度も唇を啄む間、三和は、すこしも聲を上げなかった。多少のことなら蝉が掻き消してくれただろうに、微笑んでくれたきり、頑なに口を閉ざした。呼吸の隙に舌を滑り込ませたけれど、完全にぼくのくちづけを受け入れているわけでない、そう突き放すようにかわし続ける小さな舌を、ついぞ絡め取ることはかなわなかった。時折、目尻に溜まった涙を落とすためにまばたきをした。偶然に絡んでしまった視線が、甘く囁いた。吁、昔から、そう。きみは言葉よりも、そうして直接、情に訴え掛けてくるのだった。

 ひたすら、真っ直ぐに此方に語り掛けていた瞳には、侮蔑と愛憎が入り乱れていた。ぼくはそれが不思議で仕方がなかった。だって、三和は、微笑んだのだ。ぼくを、今一度と、唇まで誘ったのは三和の方なのだ。あいにく、ぼくは誰かに語り掛けるなんて、そんな生命力の溢れる瞳を持っていない。だから、ぼくはずっと疑問を抱き続ける。螺鈿のような気品ある色彩を宿した三和の瞳とはまるで違うものが、ぼくの眼窩にはあるけれども、比べてみれば、ぼくの瞳は随分と塵芥にまみれている。

 

「そんな眼で、ぼくを見てくれるなよ」

 

 自分のことを、兄と呼ぶ三和は、とうに想像出来なくなっている。ぼくたちは、此処で終わったのだ。その日その時からぼくと三和はもはや兄妹ではなくなった。ぼくは、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、……笑っていた。

 

 *

 

 母の葬式の日、父が再婚したいと言った。ぼくはひとを慈しむことに不慣れだったし、母を嫌っていたが、人並みに感傷に浸ってみようかとは思った。それなのに、父はほかの婦のことで浮かれていたのだ。晩年には、曲がりなりにも父を愛していたと呟いた愚かな母を父は知らず、ちっとも悼む気持ちを持たなかったのは、もったいないことだと、一度は拒絶した。

 ぼくはつい最近まで、恥ずかしながら、婦というものをまったく知らずにいた。それは、ものごころついた時から、母が父の居ぬ間に家に別の男を連れ込んでいたから、いちから婦という存在を嫌悪していたことも原因のひとつにはある。当時のぼくにも理解出来た。母は、ひどく、穢らわしい、と。けれども、数日後父が本当に連れてきた母娘は違った。のちにすぐ継母となるひとは、小説の登場人物にしか覚えがないような淑やかな婦だった。立ち居振舞いも、穏やかな聲も、やさしい日溜まりのような眼差しも、どれもが、ぼくの婦に対する価値観を覆すものだった。かげろうに揺らめいて、黒髪が甘く香ったのをよく覚えている。耳に掛けていた長い黒髪が、緩く結わえていた房と共に雪崩れ、するすると肩を流れていくのを見ていた。手に取れば、ぼくの手に滴るのだろうなと、息をのんだ。こんな日溜まりのようなひとを、困らせてみたいと思った。

 

 一方の三和は、陰日向がよく似合う、好い婦だった。三和の唇はいつでも紅く色付き、一点、西瓜の種ほどの黒子があって、そればかりに気を取られていた時期もあった。幼いながらに既に妖しく艶めきだしていた唇は、ぼくを狂わせはじめた。西瓜をかじる時、必ず三和を思い出した。申し訳程度の後ろめたさと共に、ぼくは種を飲み込んだ。噛み砕いた日もあった。それだけで満たされるだけの、ちっぽけな支配欲だった。もし種を飲み込んだことを追及されたら、弁解するだけの語彙を、ぼくは持ち合わせていなかったけれど。だからなのか、惚れ込んだ唇が口角を上げ、冷えきった瞳で微笑まれると、もう、どうにもうまくいかないのだ。

 

 こんな婦が、ぼくの知らないところに暮らしていたのか? 父が知り合えるほど近くに? そう思うと、自分の視野の狭さに悲鳴をあげそうになった。継母、義妹として同じ屋敷に住まうようになってから、どうしても目を逸らしてしまうことが多々あったけれども、ぼくがすっかり気を許すまでに、そう時間は掛からなかったように思う。その頃には、母を悼むことをやめていた。ぼくは、父に似て薄情で、単純な生き物なのだ。

 ふとそんな過去のことを思い出し、やはり三和は美しいなと耽る間にも、唇は一寸以上離れなかった。抱き寄せて頬と頬を合わせてみた。昔は、大人たちが子どもを除け者にし、ぼくたち子どもは寝たふりをしなければならない夜がしばしばあった。小声でしか話せないそんな夜には必ずこうしていたから、同じようにすれば話さないながらも、三和が頷き応えてくれる気がしたのだ。耳、頬、鼻と順にくちづけ催促したが、虚しくも沈黙は続いた。瞳も、再び伏せられてしまった。

 

「覚えている? おかあさんのこと」

 

 何か言わなければならないと思った。たとえば、どちらの? と一言だけでも構わない。三和の瞳をもう一度覗き込む切っ掛けが、ぼくには必要だった。

 

「わすれてしまったの?」

 

 ぼくは、必要な言葉を見付けられず、三和の紅く熟れた唇と、種を、やわく噛んだ。三和は答えを欲していたから、ぼくのくちづけを手のひらで拒もうとした。ぼくが三和の頸を絞めたことで、手のひらはぼくの手に重ねられたが、もう、これだけでは、ぼくの支配欲は満たされやしなかった。何も答えないことが、どれだけ卑怯かを知っているつもりだ。

 

 ばかみたいに長い時間、唇を食んだ。三和がぼくの背に立てた爪や、最初のうちばたつかせた白い脚はすっかり力をなくして、すこしして爪先が弱々しく痙攣した。三和の瞳が生み出した涙は、頬をすべって、唇に滴るばかりで、二人の唇が渇くことはなかった。触れるか触れないかの距離で吐息を感じるのはひどく心地が好く、もはや畜生にはこれを貪らない選択はなかった。庭の木々で真夏を生き抜く蝉たちは、唇や手や影なんかが全て重なっていく様がよく見えたことだろう。その生に深く刻むことだ。ぼくたちが交わした密約の意味を。

 

 *

 

 茜の夏陽に熔けていく三和の黒髪は、いつか二人で見た継母の水死体を彷彿とさせた。ぼくたちが暮らす小さな村では、ひと一人死んだことでしばらくの間ざわついた。一筋しかない村の川に死体の体液やなにかが流れていたとなれば、生活に支障を来す。数ある枯れ井戸は何の役にも立たない。けれど、大人や、子どもまで戸惑う中、ぼくだけは冷静だった。知っていたからだ。継母がどんな風に水に浸るに至り、どんな気持ちで体温を失っていったのかを。

 

「水面に弧を画いた黒髪が美しかったよ。艶やかで、それでいて、滑稽で……でもそうなる前は、今の三和みたいにぼくを見ていたよ。何もかもをさとって、軽蔑していた」

 

 だからだろうか。それ相当に美しく熟れた三和の躯が間抜けな音をたてて横たわった時、たまらなく愛しく思えたのは。

 

「西瓜を冷やしてあるんだ。川へ行こうよ、三和」

 

 吁、この婦も、今宵ぼくは。

 

 

bottom of page